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ハリル解任と日本サッカーのこれから Part.1

 はじめに

大盛り上がりだったロシアワールドカップ、日本チームは大方の予想に反して決勝トーナメントへ進出し、躍進の大会として扱われそうな気配がすごくあります。が、大会2ヶ月前のハリルホジッチ解任という事件は未だに解決された、とは言いがたい状態です。ハリル解任は「監督が合わなかったから解任した」に留まらず日本サッカーの将来に大きな(恐らく悪い)影響を及ぼす出来事、いや、日本が抱えている問題が目に見える形で表出した結果の出来事であると僕は考えています。

この記事は、ハリル解任に至る経緯、そこに潜む問題について整理し、これから沢山出るであろうニュースに対してこれを読んだみなさんが日本サッカーについて考えるためのベースになればいいなという趣旨でございます。様々な人の様々な意見や発信を大いに受け売りしていますが、1つの記事に概観をまとめること、そして僕が受け売ることでこの問題について関心をもってくれる人が少なかったとしてもいると信じているので全力で受け売ります。なんとかお許しいただければ。Part.2で主なテーマを扱いますが、Part.1ではそのための前提となる日本サッカーの強化とハリルの仕事の大まかな流れを整理します。

1.ハリルホジッチ招聘に至るまでの流れ

まず、日本代表が初めてワールドカップに出場した1998年のフランス大会以降の、日本代表の強化方針の変遷とそれぞれの監督について見ていきたいと思います。

1.トルシエ期(1998~2002)

フランスW杯にて初めて世界の舞台を経験したものの3戦全敗と、その先には高い壁があることを突きつけられた日本。本場ヨーロッパの知見を導入するため、アフリカを中心に実績のあるフランス人のフィリップ・トルシエを招聘。「フラット3」のフレーズで有名な3枚のDFを並べるフォーメーションを徹底し、 規律のあるチームを作り上げたトルシエはW杯本大会で(自国開催ということもありますが)日本を初の決勝トーナメントへ導きます。大きな成果を上げながらも、規律を重視しすぎたことにより不足した柔軟性と「個の力」の上乗せが課題として残されました。

2.ジーコ期(2002~2006)

日韓W杯を終え、規律と「個」の融合を目指して白羽の矢が立ったのがご存じ「サッカーの神様」ことジーコ。選手としてのブラジル代表での輝かしすぎる経験、選手兼指導役を務めJリーグ鹿島アントラーズを強豪へと成長させた実績を買われ、正式な監督経験はない中での抜擢となりました。彼の志向したサッカーは選手のイマジネーションを活かした攻撃的で自由なサッカー。攻守ともに細かな約束事は与えられず、最もうまくいく選手の組み合わせを探る「キャスティング主義」というような形をとりましたが、トルシエ期の上積みではなく否定となってしまったチームはアジアカップでは優勝を果たしたもののドイツW杯では全く結果が出ませんでした。トルシエとの対比から「組織か、個か?」といった議論が起こり始めます。

3.オシム期(2006~2007.12)

そんな中就任したのがボスニア・ヘルツェゴビナ人のイビチャ・オシムです。旧ユーゴスラビアを率いW杯を戦った経験を持つオシムは、「日本サッカーの日本化」を掲げ、組織か個か?ではなく日本人の特長(とされていた)規律性、献身性、技術への向上心などを活かしたサッカーを目指しました。一定の成果が出始めていましたが、2007年11月にオシム脳梗塞で倒れ、監督を続けられる状態ではなくなったため退任。フランス大会で監督を務めた岡田武史氏へとバトンが渡されることになります。

4.第2次岡田期(2007.12~2010)

アジア予選直前でチームを託された岡田武史監督は「接近、連続、展開」をコンセプトに、局面局面で数的優位を作り出し日本人の俊敏さ、ボールテクニックの高さを活かしたコンパクトな攻撃サッカーを目指します。予選は突破したもののなかなか満足のいく形にならない中、本大会直前で方針を大転換。極めて守備的な戦い方にシフトし、初の自国開催ではない大会での決勝トーナメント進出を果たします。もちろん結果が出たことは素晴らしいことですが、この大会が選手やサポーター、メディアに「俺達がやりたいのはこんなんじゃない」という意識を植え付けてしまい、『日本らしいサッカー』への執着、俗にいう「岡ちゃんの呪い」へと繋がることとなります。

5.ザッケローニ期(2010~2014)

 改めて攻撃的なサッカーを目指し、イタリアからACミランをリーグ優勝に導いた実績を持つアルベルト・ザッケローニを迎えます。優秀な戦術家であるザックのもとで世界の強豪国とも渡り合える攻撃ユニットの形成に成功しアジアカップを優勝、世界ランキングも過去最高の13位まで上昇します。4年間でアルゼンチン、フランスを撃破しイタリアやオランダにも善戦するなど、大きな期待を寄せられましたがチームの成熟があまりに早かったため本大会では分析されてしまい、チーム戦術が機能しなかった時のプランBもなく、更に直前のコンディション調整にも失敗したため期待されたパフォーマンスを発揮できないまま1分2敗で大会を去ることになります。順調だったかに見えた強化を見直す必要に迫られるとともに、ただ強力なチームを作り一戦一戦を戦えばいいクラブチームとは違いW杯では4年間をトータルで見つめたプランニングが求められることから、W杯本大会での実績が次期監督の条件となりました。

6.アギーレ期(2014~2015.2)

メキシコ代表監督として数度のW杯を経験しており、更にスペインで強豪アトレティコ・マドリードと下位クラブのオサスナでの指揮経験もあるアギーレは、世界を知っていてかつ強者の戦いと弱者の戦いを使い分けられるまさに日本代表監督にうってつけの人材でした。しかし就任から半年後、過去の八百長事件に関与した疑惑が持ち上がり、スペインで裁判に出廷しなくてはならないことになってしまいます。協会は監督の業務に支障が出ることや、裁判の結果次第で本大会直前に監督を替えるようなことをしなくて済むように(あからさまな伏線)、泣く泣く解任という形をとりました。 

7.ハリルホジッチ期(2015.3~2018.4)

そしていよいよヴァイッド・ハリルホジッチの就任です。ハリル期の代表については次の章で述べるので、ハリルの経歴を少し掘り下げて紹介します。

ユーゴスラビアに生まれたハリルホジッチは選手としてはユーゴ史上最も成功したFWの1人で、海外移籍への制限が厳しかった時代においてフランスのチームへの移籍も果たしています。引退後は母国で暮らしていましたがユーゴ紛争の激化によりフランスに移住。以降は監督としてフランスのクラブや各国の代表チームで指揮を執り、ブラジルW杯ではアルジェリア代表を率いベスト8進出はならなかったものの「(優勝した)ドイツを最も苦しめた試合」と評される好ゲームを演出し、注目を集めました。当時の段階で日本が呼べそうな監督の中ではトップクラスの実績を持つ人物だったと言っていいでしょう。

2.ハリル期に行われていたこと(W杯出場権獲得まで)

ハリルを招聘したのはアギーレと同じく「相手に応じて戦い方を変えることができ、W杯に向けて4年間トータルでプランを組み立てられる監督」を求めてのことです。

まず選手選考に関して、ハリルは一貫して「このチームにはスターはいない」ということを強調し、候補となる選手には所属クラブでコンスタントに試合に出場することを常に要求していました。軸になる選手に合わせたチーム作りをするのではなく、様々な対戦相手を想定して複数の戦い方を設定し、そこに合う能力を持った選手をチョイスするという方法のため、ザック時代には絶対的な地位を築いていた本田圭佑香川真司長友佑都などもクラブでの出場状況やその時にチョイスされる戦術によってはベンチを温める機会や招集外となる機会も出てきました。逆にクラブでコンディションを上げて代表入りを勝ち取り台頭した選手としては原口元気久保裕也井手口陽介などが挙げられるでしょう。

同時にハリルが選手に求めたのは「デュエル」の強さです。デュエルとは「決闘」を意味する言葉で、サッカーにおいては広く「1対1の局面」を指しています。わかりやすくボールを奪う、奪われないようにする場面だけではなく、マークにつく、それを外すなど「1人対1人」の争いが発生する場面はすべてデュエルとして扱われます。(W杯中の西野体制において手倉森誠コーチは「日本のサッカーはデュエルを避けて、パスを回して攻めるサッカー」というような発言をしていましたが、これは正しい正しくないではなく全く的外れな意見だと言えるでしょう。)言葉の響きから「組織か個か?」のような切り口で議論が起こっているのを見かけますが、ハリルはデュエルというものを戦いの主題としてではなく、戦術を実行する上で必須の前提条件として捉えていました。高度な戦術ゲームと化しつつある現代サッカーにおいても、様々な局面でデュエルは絶対に避けられないものです。

さらにハリルは選手に体脂肪率を12%以下に保つことも求めていました。それ以上の脂肪を抱えるのはスピードあるプレーに致命的だという考えからです。ポルトガルクリスティアーノ・ロナウド選手の体脂肪率は5%以下ですが、当時ハリルに体脂肪率オーバーを指摘されていた選手は15%前後だったとも言われています。この要求は世界基準からすれば極めて当たり前で、現にいわゆる海外組の選手は1人もオーバーしていませんでした。世界最高峰の選手であるロナウドに比べて6~7kgも余分な脂肪をまとってプレーしていることになる、と考えればもっともなことと思っていただけると思います。

肝心のW杯予選ですが、様々な選手を試しながらホームのサウジアラビア戦やアウェイのUAE戦、出場を決めたオーストラリア戦などの「絶対に勝たなければいけない試合」ではよく整理されたゲームプランで相手の戦術を無効化しつつ自分たちの強みを発揮し、見事W杯本戦への出場を勝ち取りました。

 

3.ハリル期に行われていたこと(W杯予選後から解任まで)

(2度の欧州遠征、E-1)

W杯出場決定後、ハリルは代えのきかない存在(大迫、長谷部、吉田など)の代えを探すこと(杉本健勇高萩洋次郎三浦弦太などをテスト)と、グループリーグの組み合わせが決まってからはそれぞれのチーム相手の戦術を意識した選手や戦術のテストを行っていました。

2017年10月の欧州遠征では、世界ランクトップ5に入るブラジル、ベルギーとの対戦を行いました。2試合とも敗れたものの、2試合目のベルギー戦では多くの時間帯で前からの守備で相手を上手く封じられていたこともありハリルはある程度満足していた旨のコメントを残しています。あくまである程度ですが。

続く12月のE-1(東アジア選手権)では最後の国内組(Jリーグでプレーする選手)の発掘が行われたため、海外組は招集されていません。この大会から存在感を増した選手としては中村航輔や大島遼太、三竿健斗などが挙げられるでしょう。2位でフィニッシュしたものの因縁の韓国戦で1-4と屈辱的な大敗を喫し、先の欧州遠征と合わせて「このままで大丈夫なのか?」という声が上がり始めます。実際に協会内でハリル解任を検討したのはこのタイミングが初めてだそうです。

そして結果的にハリル体制最後の遠征となった2018年3月の欧州遠征では、E-1で好印象を残した選手を加え、仮想セネガルと位置づけたマリ、同じく仮想ポーランドとされたウクライナとの試合を行いました。結果は芳しくありませんでしたが、中島翔哉が強烈なインパクトを残すなどの収穫も見えました。ここでも勝ち星をあげられなかったことに加え、選手のメディアへの発言にハリルが不満を口にするなど、この時点でチームの状態があまりよくなかったのは事実でしょう。この遠征が終わって2週間弱経った4月8日の深夜、「9日に協会がハリルホジッチ監督の契約に関する会見を行う」との報道があり、実際に9日の会見で田嶋幸三会長よりハリルホジッチ解任が正式に発表されました。W杯本大会まで2ヶ月を切ったタイミングでの出来事でした。

 

一旦ここまでで区切ります。part.2では解任騒動に細かく迫り、様々なことを検討していきたいと思います。